MBは自動車レース草創期の時代から積極的にレースに参加していました。特にナチス党が政権を握っていた第ニ次大戦以前には、国威掲揚のため「自動車レースでさえもドイツは世界一でなくてはならない」と考えるドイツ政府によってダイムラー・ベンツ社は莫大な開発費の援助を受け、現在のF1の源流である当時のヨーロッパGPで上位を独占し続けていました。
やがて第ニ次大戦が終結すると敗戦国であったドイツは連合国によって自動車産業の操業を禁止されますが、1946年には再び自動車の生産を開始。1951年には敗戦国のレース参加が認められるようになり、1952年からMBもレースに復帰しました。そして戦後初のレーシング・マシン、W196/300SLが誕生したのです。
ガル・ウイングで有名な市販車の300SLの試作モデルでもあったW196はまさに伝説的な活躍をしました。ミッレ・ミリアやル・マンなどのスポーツカーレースで1952年に5戦4勝したほか上位独占を繰り返し、F1GPにおいても同じシャーシを持ったGPカーが54年にタイトルを獲得しました。やがてW196はW196S/300SLRへと進化し、1955年から実戦投入されます。最初の2戦をともに1、2フィニッシュしてMBは圧倒的な力を見せつけますが、投入3戦目であるル・マン24時間耐久レースで悲劇は起きました。スタートから2時間28分後、No.20ルヴェー/フィッチ組の車両が観客席に飛び込み72名の死者と100名以上の負傷者を出す大惨事となり、運転していたルヴェー自身も死亡してしまったのです。ダイムラー・ベンツ本社は事故の直後トップでレースをリードしていたNo.19のSLRもリタイヤさせ、このレースを辞退しました。
悲劇の後も300SLRはいくつかのレースに参戦し、その全てで優勝及び上位独占をしますが、1955年のレースシーズンが終わるとダイムラー・ベンツ社はそれ以後の全てのレースに不参戦を決定。事故の犠牲者に対しての責任を負う形となりました。
このような形でレース活動に終止符を打ったMBですが、その灯は完全に消えた訳ではありませんでした。ワークスとしての活動は無かったものの、MBでレースに参戦する多くのプライベーターを技術的にサポートし、特に国際ラリーではW110、111、113などの市販車ベースのレースマシンがサファリラリーでの2年連続総合優勝を含む大活躍を見せました。80年代の後半になるとMB社は過去の悲劇に対する「禊」は終えたとし、30年ぶりにレース活動を再開します。ザウバーのシャーシにMBのエンジンを提供してグループCカテゴリーに出場したのを皮切りに、GT選手権、F1、インディと次々と活動の場を拡げ現在も世界中のレースを席巻し続けているのは御存じの通りです。
決して順調ではなかったMBのレース活動の道のりは、けれどもMBの市販車に対して重要な教訓をフィードバックしました。すなわち、高速移動と安全の両立という自動車の永遠のテーマです。これはアウトバーンという世界一の高速一般道を有するドイツでは特に重要な事であり、MBは常にこのテーマと向き合いながら車づくりをしてきました。その結果常に安定したパワーを生み出すエンジン、高速走行中でも決して破綻をきたさないステアリングと足周り、瞬時に安定した減速が可能な強力なブレーキ、そしてそれらを支える強靱なボディとシャーシを得たのです。どんな速度域でも安定した挙動を示す車は安全に走行することが出来ますから、MBにとって優れた走行性能を得るということは、常に安全を確保するためにも重要な意味を持つのです。
MBはレース活動の休止という形で過去の悲劇に対する償いをしましたが、同時に高速で安全に移動できる自動車の実現という形でも償いをしたと言えるのかもしれません。
|